スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

一眼レフカメラ

ニコンの一眼レフカメラを購入した。
この短くもいとおしい人生の一瞬を、永遠に閉じ込めるためである…とかきたいところだが、けっきょくのところ、良い思い出も悪い思い出もしばらくたつと忘れてしまうので、日々の出来事をできるだけ綺麗に残しておきたいのである。


写真を撮ることに関心を持ったことがほぼないので、F値やシャッタスピード、ISO感度に関して???の状態からスタートした。
Webサイトをいろいろと読んでみて、写真のいいところは現実を物理的に改変する必要がないところだなあとしみじみ思うようになった。
主体側である自分の位置や、高さや、気分を変えたり、技術を鍛えたりすることでのみ、映りを操作することができる。
出来上がってくるものは一枚の画像だけれども、撮影者のまなざしが直接的に埋め込まれているといった点では、心理現象的側面が強い。
機材の技術史から見ると、写真はいかなる表現が可能か、といった技術論や、
写真の物自体から見ると、はたして写真は現実か虚構かといった物語論?のような議論にも展開できそうで、

撮影者と被写体の関係、撮影者と鑑賞者の関係、撮影者自身の問題、機材自身問題、映ったもの自身、映された場所、伝達道具としての写真、芸術としての写真、社会的役割としての写真、絵画と写真はどう違うのか、そもそも人はなぜ写真を撮るのという哲学的?な問題…などなど、思いつくだけでも論じるべきポイントは広大に広がっている。


ネットや色々な写真を見ていたら、35mmの単焦点レンズが欲しくなってきました…。
でも、少なくとも、最初についていたズームのレンズ(18-55mm f:3.5-5.6)で1万枚撮ってからにしよう。

好きな作家さん

人文系に限定して、よく読んで、その文章に影響を受けた書き手は誰だったろうか、と少し思い出してみる。
大変僭越だけど、勝手に私淑しているひとたちは…思い出すままに。

■阿部昭

■木山捷平

■志賀直哉

■尾崎一雄

■堀江敏幸

■夏目漱石

■小林秀雄

■中村光夫

■東浩紀


……

ぼくが本を読むときは、その人の持っている雰囲気を好きになることが多い。
ある金言や主張に対して、おおおっとなるというよりは、
何となく好きだなあ、といった全体的な印象を優先する。
だから、その人が何を書いていたか、何を述べているのか、今一つ覚えていない。
上の作家さんたちの本を読むときは、論文を読むときのようには読まない。
目的を持たず、先を予測せず、文字とその文字の間を、ただ逍遥する。

本や書き手に関する記憶は部屋に置いてあるので、身一つで外に出ると、
何も思い出せなくなる。
本と部屋がなくなればたぶんこの記憶は消えてしまうので、さみしい。
この記憶が消えたところに、はたして何が残るのだろう。やさしさとかかな。


中野に、新しい古本屋さんができた。まだ行っていない。
三鷹の水中書店さんも行ってみたい。
神楽坂のかもめブックスさんにも行ってみたい。

本屋さんは、教えてくれる。
自分も知らない好みであったり、手に取ったこともない作家さんであったり、見たこともない風景だったり。
本屋さんは、与えてくれる。
知識だったり、知恵だったり、友人だったり。
本屋さんは、待っていてくれる。
私が、死ぬとき、枕元に置きたくなるような、一冊の本を手に取るまでその日まで。


いまは、阿川弘之氏の『志賀直哉 上』を脇において、ストロボエッジを見ている。
顔がふっくらした有村ちゃんがかわいい。

研究的マインド

7時に起床し、ぼんやりしたり着替えをしたりして家を出る。
電車の中では音楽を聴き、本を読む。
会社ではメールを確認し、指示し、自身も作業をし、考えて、伝えて、まとめて、壊して、連絡して、報告して、17時半〜24時の間くらいに退社する。
帰路は、作ったものが問題ないかぼんやり考えながら、音楽を聴き、本を読む。たまにニコニコ動画を見る。
妻に帰宅時間の連絡をする。余裕があれば会社から一駅歩く。
家に着けば、ご飯を食べ、テレビを見て、本の背表紙を眺めて、スプラトゥーンをして、妻と話をして、24時から26時の間くらいに寝る。

文庫手帳2016を買った。年賀状のこととか、お歳暮のこととか、来年のこととかを考える。
1年後、何をしているのか今一つ見当がつかない。

辻井さんの弾くドビュッシーを借りて聴く。弾き手によって、同じ曲でも表情が異なる。
楽譜と演奏家の関係は、台本と役者の関係、風土と風景の関係、型と形の関係、静と動の関係に通じる。

Kalafinaの新アルバムが出ていたので、これも借りて聴く。
かわいい川口春奈が見たくて『好きっていいなよ』を借りて観る。
今度は美しい有村架純が見たいので『ストロボエッジ』を借りようかと思う。
グロテスクな二階堂ふみもなかなか。
白髪で奇妙な新垣結は楽しみ。
円熟の鈴木京香はどこへいった。

読んでいる本の中で、谷川徹三氏が出てきたので、どんな人だっけと思って調べる。思いのほかイケメンだった。

研究的マインドから遠ざかって、ずいぶん経つ。

教養の流行

今を生き抜くための教養とか、役に立つ教養とか、上に立つ人のための教養とか、人に好かれるための教養とか…
実利的側面を押し出した教養論がここ数年、ずいぶんとスポットを浴びている。

大正時代、第一高等学校に新渡戸稲造が校長として就任し、大正教養主義は花開いた。
第二次世界大戦前後は、河合栄治郎をはじめとした昭和教養主義がブームとなった。西田哲学が学生たちに特に読まれたのはこのころで、太田伍長さんや弘津正二さんをはじめとしたヒーローも生まれた。
80年代は浅田彰や中沢新一を中心としたニューアカデミズムが、半ばファッションとして流行した。
どうやら変革期に教養は流行る。
そしてどうやら、教養=読書(哲学、文学などの人文学)らしい。

元々、修養の考え方から派生して生まれたとされる教養は、その目的を、個人主義や自由主義と結びついた「人格の完成」とするきらいがあった。己自身を鍛える修行のようなもので、それによる社会的な利益の享受は全く度外視されていた(と思う。)

いま、書店に売られている教養を押し出した多くの本は、どことなく不純な感じがする。
僕が本を読むのは、偉くなるためだとか、人と円滑に付き合えるようになるためだとか、お金を得るためだとか、10年後の出世のためだとか、自分を物知りに見せたいだとか、そういうことではない。ただ自分の愉しみのためである。

100年前の本を読むことに対して「たとえ今は分からなくても、今後良いことがある」とも思っていない。
もう少し具体的にいうと、大好きだった祖父がよく話してくれた、昭和教養主義まっただ中、東京教育大学時代の苦しくも楽しい読書経験を、私も味わってみたいのである。

結婚

少し前、結婚しました。
新しい戸籍をつくるので、入籍ではなく作籍や造籍と言った方が適切かもしれない。
これで晴れてみーな氏と家族になったわけですが、元々一緒に住んでいたので生活に特段変化はありません。

無理のない生活ができればよいなあと、思っています。
世の中には、夫・妻という「役割」の固定観念が根強く残っているようだが、気にしてはいけない。
そんなものは、ある時期に制作された幻想でしかない。
本当は、夫婦の数だけ生活のスタイルがある。
「お互いに相手のことを自分以上に大切だと考えられる」というたった一つのことが、
「それぞれの夫婦生活」という多を生むはずである。
一は多に通じている。

さて、キッチンのスペースを本棚に回収してしまっても良いかもしれないと思ったりもする。

綺麗な庭園で記念写真を撮りたいなあ…。