ライフログ

10年以上前に立ち上げて、20回くらい更新して、10年以上忘れていたブログがあったことをふと思い出した。
ただ、IDもPWもタイトルも忘れてしまったのでもう巡り合うこともない。
漂流ブログである。
おそらく、徹底した瞑想でもしないことには思い出せないと思う。


一日の記録をとりたくなってきた。
明日をもっと良い一日にするためには、まず今どのような一日を過ごしているのか、正確に把握する必要があると考えて。

□平均的な一日

07:00 起床
07:00-07:30 身支度
07:30-08:15 通勤
08:30-12:00 仕事
12:00-13:00 お昼
13:00-19:00 仕事
19:00-19:45 帰路
19:45-20:30 夕食
20:30-25:00 読書・歓談・掃除
25:00 就寝


□繁忙期の一日

07:00 起床
07:00-07:30 身支度
07:30-08:15 通勤
08:30-12:00 仕事
12:00-13:00 お昼
13:00-24:00 仕事
24:00-24:45 帰路
24:45-25:30 夕食
25:30-26:00 寝る支度
26:00 就寝


こうやって書きだすと、行動のパタンが実に少なくシンプル。
仕事と家庭以外の習慣的な行動があるわけでもなく。
行動を切り詰めるのではなく、何かを付加した方がよさそうですね。
例えばストレッチとかスケッチとか

本屋 Title へ…

荻窪に新しくオープンした新刊書店「Title」へ行く。荻窪駅から西へ10分強。

次の2冊を購入する。

・植田実『集合住宅物語』(みすず書房)
・堀江敏幸『仰向けの言葉』(平凡社)


店内は大盛況。私が全部の棚と本を目に入れている間、奥様は奥の喫茶スペースで休憩。
全部で1万冊弱くらいかな、全ての本に血が通っていた。
あの棚に入れてもらえることで、本がより一層輝きます。
と同時に、私が本を手にすることをエンゲージしてくれる場でありました。

ただ、あんまり頻繁にお邪魔するのはちょっと疲れるかしら。
全体的に気合がほとばしっており空間が稠密で、普段自邸のなよなよ読書空間にいる私には刺激が強すぎる。
少し抜けている部分があっても良いかなあ、と思ったり。


近頃、本屋さんで買うのは、あらかじめ「欲しいなあ」と思っている本ばかり。
その場で出会った本をその瞬間購入する、という経験がどんどん少なくなっておりまして、少々危機感を感じています。
未知への対応力が、年齢と共に急激に衰えています。



ちなみに先日は、別の本屋さんで、荻原魚雷氏の『閑な読書人』を購入。
この本のこと、なぜか『暇な老人』と覚えておりました。

ミニマリスト=物を減らす人?

ここ数年、持ち物の量と種類が、自分たちで管理できる量を超えていると常々思っていた。
もう少々持ち物を最適化しないと、いったい何を持っていて、何を持っていないか、全く分からなくなってしまう。
それに、メンテナンスも不十分となり、ものの寿命も縮めてしまう。

そこで、少し前に話題になっていた「ミニマリスト」に関する本を読み、ブログも拝見した。

物を減らしたり節約したりすることが目的にはなく、空間を整えることで自分を整えようといった、「空間と連動した精神論」といった様子。
これは、少し景観の議論に似ている。

とはいうものの、ミニマリストと言われる方の中には、持ち物を極力減らすこと自体に奮闘されている方もいたりするので、今一つ語義に統一感はない。これも景観に似ている。

生活の最適化の一つの方法として、ミニマライズがある。
安易に方法だけ取り入れようとすると、尻切れトンボになってしまう恐れがある。
明治期の日本のように徹底した姿勢ならば、血肉になるだろうけれども。

それでも、物を少なくしようとする姿勢は、何が自分にとって大切で、不要なのか、
一度見直す良いチャンスになりますね。

◆◆

わたしにとって、必要なものは何だろうかと問いかけてみた。


・本

・紙

・ペン

・つめきり

・みみかき

・かみそり

・ふとん

・ふく一式

・せっけん

・電気

・水道

・ガス

・家

・歯ブラシ

ーーー絶対に必要な壁ーーー

・本棚

・カバン

・冷蔵庫

・食器類

・机

・椅子

・絵具

・シャワー類

・洗濯機

・トイレ

・薬類

・銀行口座やカード類

・ソファ


ーーーあったら便利の壁ーーー

・パソコン

・携帯

・体温計

・アイロン

・エアコン

・・・

ーーーべつになくても困らない壁ーーー


色々思いめぐらしてみると、
家にあるもので不要な物って、いわゆるゴミの類であり、
じぶんたちが暮らすうえで、使えるけれど不要なものって、一つもないのではないか。
もともと、物を買わないし、趣味もさほどないし。
別に人に評価されようと思って、本を買ったりカメラを買ったりしているわけではないのだし。

それに、わざわざ家で料理するより外で買ったり食べたりした方が低コストな上、楽なため、いずれは自宅からキッチンを排除したい。手作りをよしとする幻想は嫌いだ。
また、都会に住んでいる限り、洗濯機も所有する必要はなく、コインランドリィを遣えばよいのだから本当は別にいらない。


ふと思ったが、まず減らすべきはSNS関係だと思う。
facebookなど結局鬱陶しいだけなので、そろそろ脱退しよう。
このブログもいずれは削除しよう。

携帯電話やパソコン類にあるデータやモニタ越しの関係はずっと「ニセモノ」な感じがしている。
ウェブは便利だけど、ウェブに価値を見いだせない。
いずれは生活から淘汰したい。
ウェブを淘汰しても大丈夫な生活モデルを構築する必要がある。
多分、今の時代にウェブから離れるということは、それはもう大変なことなのだと思うけれど。

一眼レフカメラ

ニコンの一眼レフカメラを購入した。
この短くもいとおしい人生の一瞬を、永遠に閉じ込めるためである…とかきたいところだが、けっきょくのところ、良い思い出も悪い思い出もしばらくたつと忘れてしまうので、日々の出来事をできるだけ綺麗に残しておきたいのである。


写真を撮ることに関心を持ったことがほぼないので、F値やシャッタスピード、ISO感度に関して???の状態からスタートした。
Webサイトをいろいろと読んでみて、写真のいいところは現実を物理的に改変する必要がないところだなあとしみじみ思うようになった。
主体側である自分の位置や、高さや、気分を変えたり、技術を鍛えたりすることでのみ、映りを操作することができる。
出来上がってくるものは一枚の画像だけれども、撮影者のまなざしが直接的に埋め込まれているといった点では、心理現象的側面が強い。
機材の技術史から見ると、写真はいかなる表現が可能か、といった技術論や、
写真の物自体から見ると、はたして写真は現実か虚構かといった物語論?のような議論にも展開できそうで、

撮影者と被写体の関係、撮影者と鑑賞者の関係、撮影者自身の問題、機材自身問題、映ったもの自身、映された場所、伝達道具としての写真、芸術としての写真、社会的役割としての写真、絵画と写真はどう違うのか、そもそも人はなぜ写真を撮るのという哲学的?な問題…などなど、思いつくだけでも論じるべきポイントは広大に広がっている。


ネットや色々な写真を見ていたら、35mmの単焦点レンズが欲しくなってきました…。
でも、少なくとも、最初についていたズームのレンズ(18-55mm f:3.5-5.6)で1万枚撮ってからにしよう。

好きな作家さん

人文系に限定して、よく読んで、その文章に影響を受けた書き手は誰だったろうか、と少し思い出してみる。
大変僭越だけど、勝手に私淑しているひとたちは…思い出すままに。

■阿部昭

■木山捷平

■志賀直哉

■尾崎一雄

■堀江敏幸

■夏目漱石

■小林秀雄

■中村光夫

■東浩紀


……

ぼくが本を読むときは、その人の持っている雰囲気を好きになることが多い。
ある金言や主張に対して、おおおっとなるというよりは、
何となく好きだなあ、といった全体的な印象を優先する。
だから、その人が何を書いていたか、何を述べているのか、今一つ覚えていない。
上の作家さんたちの本を読むときは、論文を読むときのようには読まない。
目的を持たず、先を予測せず、文字とその文字の間を、ただ逍遥する。

本や書き手に関する記憶は部屋に置いてあるので、身一つで外に出ると、
何も思い出せなくなる。
本と部屋がなくなればたぶんこの記憶は消えてしまうので、さみしい。
この記憶が消えたところに、はたして何が残るのだろう。やさしさとかかな。


中野に、新しい古本屋さんができた。まだ行っていない。
三鷹の水中書店さんも行ってみたい。
神楽坂のかもめブックスさんにも行ってみたい。

本屋さんは、教えてくれる。
自分も知らない好みであったり、手に取ったこともない作家さんであったり、見たこともない風景だったり。
本屋さんは、与えてくれる。
知識だったり、知恵だったり、友人だったり。
本屋さんは、待っていてくれる。
私が、死ぬとき、枕元に置きたくなるような、一冊の本を手に取るまでその日まで。


いまは、阿川弘之氏の『志賀直哉 上』を脇において、ストロボエッジを見ている。
顔がふっくらした有村ちゃんがかわいい。