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本のある風景

自分の部屋の本の並びと、自分の思考とは、何らかの形で繋がっているとよく言われます。
持っている本は、自分を映す鏡だともよく言われます。
本屋である選択をして手に入れ、それを読み、本棚に入れる。
一冊の本ではなくて、複数の本に対するその選択と吸収と配置のプロセスは世界の誰でもない、自分だけものなのでしょう。

知識や娯楽、安楽を求め本を手に取る。
そこから、人生において何かしらの重要な教養や、すぐに必要となる知識や、まなざしに影響する感性を得ます。
そして、本棚の中に意識的にせよ、無意識的にせよ、置きます(もちろんそのへんに放り投げたり床に置いたり、ということも当然あります)。

その全てにおいて、自分の内面が作用します。社会や環境という外面が、自分に影響を及ぼします。本それ自体が、自分に思いもよらない衝撃を与えます。と、考えると、読書という体験は、ただ本を読む、というものだけではなく書店で本を見て、手に取り、買い、そして持ち帰り、本を開いて、文章を読んで、ほかのことを考えて、メモを取ったり線を引いて、何か食べて飲んで、パタリと閉じて、撫でてて、置いて…それらの行為全てが、本を読む、という行為の範疇なのではないでしょうか。背表紙を見るところから、本から何かしらの影響を受けているのですから。

家では否応なく本棚の本たちが目に入ります。これまで自分が選びとってきた本たちが、こちらをむいています。
まさしく、自分たち、と行っても過言ではないのでしょう。
だから、持っている本たちは、ある種の自分の鏡なのです。何を求め、何を読んだか、物言わぬ本が雄弁に語ります。ある時点の自分の関心の物的証拠、というわけです。

次に、並び、という問題になります。特段、意識せずとも本の並びは自分独自になりますでしょう。自分ではない人がそこに住んでいて、同じ本を買ってどんどん並べていったら、全く同じ並びになるということは、滅多にありません。少しでも意識的に本棚を作る人は、同じジャンルをまとめてみたり、作家でまとめてみたり、関係なありそうな本同士を傍に置いてみたりします。

そして、本人には、意味も無く並べられた本たちにも必ず意味を見出し得ます。それがどんな意味かはわかりませんが、自分が関わってなるようになってきた本の並びには、その人独自の個性が現れます。

これはまさに風景そのものです。物の存在と組み合わせ、そしてそれを外から眺める主体に現象する。本は面白いです。一生遊べる気がします。終りがありません。自分が何かに興味関心を持っていれば、必ず本が欲しくなります。読みたくなります。ちょっとしたきっかけで書きたくなります。

テキストから、本へ。そして本のある風景へ。

いろいろな雑念や考えが混乱していて、うまく書けませんが
選ぶ、読む、並べるという行為の連続が、自分を映すということが言いたいわけです。

たまには、本を人から紹介してもらうのもいいですね。
非自己が入ってくると、新しい自己が生まれるものです。
これは、多田富雄先生の免疫に関する本で読みました。スーパーシステム!

■■■

本日、お昼過ぎに鬼子母神通りの、「ひと箱古本市」に行ってきました。
商店街道端で、30人くらいの方が本を売るイベントです。
プロ、アマチュア問わず出品されていました。
古本顔とはこういうのを言うのか、ということを直に体験できる良い機会でした。
宮脇俊三氏の『時刻表2万キロ』(河出文庫)と、小堀杏奴氏の『追憶から追憶へ』(求龍堂)を買いました。

at 18:06, ぐっちー, -

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喘息と吃音

喘息と吃音は、きっと当人に何かしらの影を落とす。

あの、うまく息ができないときの苦しみ。
目の前が涙でうまく見えない。
喉が辛い。
空気が通らない。
そういった、世界との繋がりが、日常の中でちぎれる瞬間。

あの、うまく言葉が出ないときの苦しみ。
言いたいことをうまく言えない。
伝えたいことが頭の中で空回りする。
言葉が全く出ないときの、否応なくも言いやすい言葉に切り替えるときの悲しさ。
同じ意味など決してないのに、この言葉じゃなくてはいけないのに、どうしても、言い換えないと言えない。
どうにも、内面へと落ち込んでゆく経験。

外との繋がりが切れる喘息。
内ばかりへと落ち込んでゆく吃音。


これらを克服することで
果たして流暢に世界との繋がりを建設することができるのかしら。

at 00:31, ぐっちー, -

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書く事と、近況報告

ほうううっち、しておりました。

申し訳ありません。
正直に言うと、このブログがあることを、半年くらい完全に、心の底から失念しておりました。

さて、さてさて、前回は読みの多様さと終のなさ、ということについて思い悩む記事で終わっていました。
今もその難しさは何ら変わっていません。
ただ、表現の方法については少しだけ合点がいった気がしています。
それは2つのことについて。

一つ目は、自分の考えていることを文章化したり、言葉で相手に伝えたりするときには
情報の選別という点で「背に腹はかえられぬ」の決断をしなければならない、ということ

二つ目は、同じテーマについて100の文章を書いたら、101番目の文章には、
少なくとも以前に書いた100の文章の蓄積が継承される

ということ。2つは背反しているようにも思えますが、
次元が違う問題なので共存します。

前者は意識的な表現法であることに対して、後者は無意識的な(構造論的な)表現法であるからです。
氷山の一角、という言葉があるように、いくら意識的に論述や発表を行おうとしても、どうにもならない
まるで、手が書いている、口が話している、といった状態に見舞われることが多々あります。
そういう時の、繰り返しによる身体的記憶がモノを言う状態が無意識的な状態であります。

こちらではどうにもならない頭の中の情報の攪拌と発散、迷走を意識的にコントロールしながら
そう言った無意識の攪拌や発散を、気がつかないうちに導く、といったものが上に書いた2つめの考えです。

論理的にモノを書くといった営みは、頭の中にいくつも浮かぶ疑念やアイデアを
なんとか外に形として押し出す高度で職人的な営みだと、改めて思うのでした。
そして書き方は、意識的になって勉強しないと全く進歩しないものであることも、わかりました。

■■■

書き方の問題はさておき、久々の近況報告でも。誰が読んで見えるのかわかりませんが
アクセスは途絶えておらないようなので、少しばかり気にかけてくれている人がいると信じて・・・。

・研究室
TAや課題やその他雑用によって、またテーマの捉え方が難しくてどうにも思うように出来ません。
主題も方法論も確立されていない分野の研究室なので、修士論文を考えることが余計難しいのです。

・修論
停滞中。なんと、就職活動をしているのです。

・就活
理工系の学術出版と、理工系の出版物を多数出している大手出版と、自分の専門に近い会社(土木・地図)
といったラインナップ(笑 
出版においては、自分の専門によって何ができるかということと、書籍愛を語ります。
とにかく、理工系出版が一番よい。
大手は通れるとは思えませんが、理系修士と文系的な読書傾向というハイブリッドで、
失うものは何もない精神で、全部吐き出しきます。

・読書
風景論を中心に、風景論を可能せしめる条件を考える上で重要であろう思想や文学関係を読んでいます。
趣味では、いぜんとして小林秀雄氏や、古本屋や作家についてのエッセイ、堀江敏幸氏を中心に。
レーベルでは、あえて言うならば、中公文庫、岩波新書が多い気がします。

・散歩
先週末、近くの妙正寺川で染物の展示をやっていたので見にゆきました。
堤外でひらひらと揺れる染物が、無機質な河川の色彩に華を与えていました。
あとは、目白や東中野を歩きました。大通りではなく、歩いたことのない裏道を中心に。


特段、頑張って予定を埋めようとしたり、意欲的に人脈を作ったりすることの全くない生活です。
そっちの方が性に合います。

at 10:04, ぐっちー, -

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永遠に終わることのない読み

読むことは難しい。いろいろな引用や、文献や、人間が、何層も何層も折り重なっているように思えて、すると、簡単には「一刷の本を読んだ」ということはできない。読了、という言葉はなんと乱暴なんだろうか。

at 02:54, ぐっちー, -

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現況報告

毎晩いろいろな夢を見て、頭は稍重。コップになみなみと注いだミネラルウォータを飲むと、少し生き返る気分がする。さて、今日は何をしようか、と毎日のように考える生活が楽しい。好きなように本を読み、自分の興味のある分野の、興味のあるテーマで修士論文の計画を考える。同時に卒業論文のシェイプアップもしないといけいないな…と思いつつも、なかなか出来ない。昨日の日曜日は、中野に行って帽子を見た。直射日光があまりの鋭さでもって頭頂部を突き刺してくるので、外出するとすぐに頭が痛くなって、ふらふらとする。自分の頭のサイズに合う帽子は、大体4Lか5Lなので、なかなか売っておらず、ようやく見つけても非常にお高い。おじいさんが昆虫採集をする時のような、サファリ系の帽子が良いのだが、それもなかなかない。中野ブロードウェイ内で見つけた、自分の好みにぴったりと合った帽子(しかも洗濯もできる!)は、6000円もして、全然手が出ないのであきらめた。みーな氏も帽子を欲しがっていたが、自分と同じくらい頭がでかいので、合うものがなく2人でうなだれて帰った。

帰り際には中野から歩いて帰った。何となくこっち、を繰り返しながら住宅街を、落合方面へ歩く。すると、いつの間にか若干の谷になっているところで、街路線形もうねうねした曲線でありかつ、各々の塀と地面の隙間から草がもさもさと生えている、そんな街路にたどり着いた。直感的に暗渠だと分かった気がした。たぶん、妙正寺川にそそいでいたものだろう、と妄想を膨らましながら歩く。大体、見通しの良い街路よりも、ちょっと狭くて先の見えない物の方が好きで、よくそういうところに潜り込むと、暗渠を発見する。東京の町は、暗渠がとても多い。戦災復興のがれきで埋めたり、東京オリンピックの都市整備の際に埋めたりして、元々は水の都として讃えられていた東京は、いつの間にかカミソリ護岸の主要河川のみが残るに至った。ちょっとばかり寂しいけれど、現代のまなざしでもって過去の姿をとらえる行為は、なんだか宝さがしみたいで、当時の様子を想像するのも乙でありなかなか楽しくて好きだ。半ば趣味のよう。都市計画をかじる人間が、こんな態度で良いのだろうか。赤瀬川源平氏らの路上観察学会には共感する。風景をマネジメントするのではなくて、いつまでも風景の観察者であって、ゆらゆらと万華鏡のように姿を変えてゆく風景を、こっそり発見する人間になりたいとばかり思う。

奨学金がもらえるようになった。4月から7月まで、手続きの関係上もらえていなかったので、新刊で本が買えずにストレスフルな生活だったけれど、今日、お金を頂いて、自分に関係のある分野の本を買おう、と意気込んでクワイン氏の『数学の文化史』(3800円)と、朝吹真理子氏の『きことわ』(1200円)を大学生協で購入した。なんで買ってしまったのかなかなかの謎であるが、これもきっといつかどこかで効いてくる、いや効いてこなくても別によい、そう思いながらゆっくり愉しむことにする。

折に触れて、森博嗣氏の『喜嶋先生の静かな世界』を読んでいる。この美しい静寂の世界に浸りながらも、自分の通俗に堕する傾向を卑下している。魚は普段水の中にいることさえ気が付きません。私も多分、この境遇から脱すれば、今この時間が、とてつもなく大事で素晴らしくて、人生で一番大切な時間だったのだと、実感として感じることができるでしょうか。思考できることが人間の中での一番の豊かさの証明であります。分からんことをなんとかして分かるようにしたいものです。


大学へは、よく行くようになった。本を読みに、話をしに、考えに。
ぼくはとてもそそっかしいから、焦らずゆっくり勉強したい。

既存文献の既存って、きそん、って読むんだね。ずっと、きぞん、って読んでた。恥ずかしい。


もうちょっと何か書きたい。





at 03:04, ぐっちー, -

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