毎晩いろいろな夢を見て、頭は稍重。コップになみなみと注いだミネラルウォータを飲むと、少し生き返る気分がする。さて、今日は何をしようか、と毎日のように考える生活が楽しい。好きなように本を読み、自分の興味のある分野の、興味のあるテーマで修士論文の計画を考える。同時に卒業論文のシェイプアップもしないといけいないな…と思いつつも、なかなか出来ない。昨日の日曜日は、中野に行って帽子を見た。直射日光があまりの鋭さでもって頭頂部を突き刺してくるので、外出するとすぐに頭が痛くなって、ふらふらとする。自分の頭のサイズに合う帽子は、大体4Lか5Lなので、なかなか売っておらず、ようやく見つけても非常にお高い。おじいさんが昆虫採集をする時のような、サファリ系の帽子が良いのだが、それもなかなかない。中野ブロードウェイ内で見つけた、自分の好みにぴったりと合った帽子(しかも洗濯もできる!)は、6000円もして、全然手が出ないのであきらめた。みーな氏も帽子を欲しがっていたが、自分と同じくらい頭がでかいので、合うものがなく2人でうなだれて帰った。
帰り際には中野から歩いて帰った。何となくこっち、を繰り返しながら住宅街を、落合方面へ歩く。すると、いつの間にか若干の谷になっているところで、街路線形もうねうねした曲線でありかつ、各々の塀と地面の隙間から草がもさもさと生えている、そんな街路にたどり着いた。直感的に暗渠だと分かった気がした。たぶん、妙正寺川にそそいでいたものだろう、と妄想を膨らましながら歩く。大体、見通しの良い街路よりも、ちょっと狭くて先の見えない物の方が好きで、よくそういうところに潜り込むと、暗渠を発見する。東京の町は、暗渠がとても多い。戦災復興のがれきで埋めたり、東京オリンピックの都市整備の際に埋めたりして、元々は水の都として讃えられていた東京は、いつの間にかカミソリ護岸の主要河川のみが残るに至った。ちょっとばかり寂しいけれど、現代のまなざしでもって過去の姿をとらえる行為は、なんだか宝さがしみたいで、当時の様子を想像するのも乙でありなかなか楽しくて好きだ。半ば趣味のよう。都市計画をかじる人間が、こんな態度で良いのだろうか。赤瀬川源平氏らの路上観察学会には共感する。風景をマネジメントするのではなくて、いつまでも風景の観察者であって、ゆらゆらと万華鏡のように姿を変えてゆく風景を、こっそり発見する人間になりたいとばかり思う。
奨学金がもらえるようになった。4月から7月まで、手続きの関係上もらえていなかったので、新刊で本が買えずにストレスフルな生活だったけれど、今日、お金を頂いて、自分に関係のある分野の本を買おう、と意気込んでクワイン氏の『数学の文化史』(3800円)と、朝吹真理子氏の『きことわ』(1200円)を大学生協で購入した。なんで買ってしまったのかなかなかの謎であるが、これもきっといつかどこかで効いてくる、いや効いてこなくても別によい、そう思いながらゆっくり愉しむことにする。
折に触れて、森博嗣氏の『喜嶋先生の静かな世界』を読んでいる。この美しい静寂の世界に浸りながらも、自分の通俗に堕する傾向を卑下している。魚は普段水の中にいることさえ気が付きません。私も多分、この境遇から脱すれば、今この時間が、とてつもなく大事で素晴らしくて、人生で一番大切な時間だったのだと、実感として感じることができるでしょうか。思考できることが人間の中での一番の豊かさの証明であります。分からんことをなんとかして分かるようにしたいものです。
大学へは、よく行くようになった。本を読みに、話をしに、考えに。
ぼくはとてもそそっかしいから、焦らずゆっくり勉強したい。
既存文献の既存って、きそん、って読むんだね。ずっと、きぞん、って読んでた。恥ずかしい。
もうちょっと何か書きたい。