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永遠に終わることのない読み

読むことは難しい。いろいろな引用や、文献や、人間が、何層も何層も折り重なっているように思えて、すると、簡単には「一刷の本を読んだ」ということはできない。読了、という言葉はなんと乱暴なんだろうか。

at 02:54, ぐっちー, -

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現況報告

毎晩いろいろな夢を見て、頭は稍重。コップになみなみと注いだミネラルウォータを飲むと、少し生き返る気分がする。さて、今日は何をしようか、と毎日のように考える生活が楽しい。好きなように本を読み、自分の興味のある分野の、興味のあるテーマで修士論文の計画を考える。同時に卒業論文のシェイプアップもしないといけいないな…と思いつつも、なかなか出来ない。昨日の日曜日は、中野に行って帽子を見た。直射日光があまりの鋭さでもって頭頂部を突き刺してくるので、外出するとすぐに頭が痛くなって、ふらふらとする。自分の頭のサイズに合う帽子は、大体4Lか5Lなので、なかなか売っておらず、ようやく見つけても非常にお高い。おじいさんが昆虫採集をする時のような、サファリ系の帽子が良いのだが、それもなかなかない。中野ブロードウェイ内で見つけた、自分の好みにぴったりと合った帽子(しかも洗濯もできる!)は、6000円もして、全然手が出ないのであきらめた。みーな氏も帽子を欲しがっていたが、自分と同じくらい頭がでかいので、合うものがなく2人でうなだれて帰った。

帰り際には中野から歩いて帰った。何となくこっち、を繰り返しながら住宅街を、落合方面へ歩く。すると、いつの間にか若干の谷になっているところで、街路線形もうねうねした曲線でありかつ、各々の塀と地面の隙間から草がもさもさと生えている、そんな街路にたどり着いた。直感的に暗渠だと分かった気がした。たぶん、妙正寺川にそそいでいたものだろう、と妄想を膨らましながら歩く。大体、見通しの良い街路よりも、ちょっと狭くて先の見えない物の方が好きで、よくそういうところに潜り込むと、暗渠を発見する。東京の町は、暗渠がとても多い。戦災復興のがれきで埋めたり、東京オリンピックの都市整備の際に埋めたりして、元々は水の都として讃えられていた東京は、いつの間にかカミソリ護岸の主要河川のみが残るに至った。ちょっとばかり寂しいけれど、現代のまなざしでもって過去の姿をとらえる行為は、なんだか宝さがしみたいで、当時の様子を想像するのも乙でありなかなか楽しくて好きだ。半ば趣味のよう。都市計画をかじる人間が、こんな態度で良いのだろうか。赤瀬川源平氏らの路上観察学会には共感する。風景をマネジメントするのではなくて、いつまでも風景の観察者であって、ゆらゆらと万華鏡のように姿を変えてゆく風景を、こっそり発見する人間になりたいとばかり思う。

奨学金がもらえるようになった。4月から7月まで、手続きの関係上もらえていなかったので、新刊で本が買えずにストレスフルな生活だったけれど、今日、お金を頂いて、自分に関係のある分野の本を買おう、と意気込んでクワイン氏の『数学の文化史』(3800円)と、朝吹真理子氏の『きことわ』(1200円)を大学生協で購入した。なんで買ってしまったのかなかなかの謎であるが、これもきっといつかどこかで効いてくる、いや効いてこなくても別によい、そう思いながらゆっくり愉しむことにする。

折に触れて、森博嗣氏の『喜嶋先生の静かな世界』を読んでいる。この美しい静寂の世界に浸りながらも、自分の通俗に堕する傾向を卑下している。魚は普段水の中にいることさえ気が付きません。私も多分、この境遇から脱すれば、今この時間が、とてつもなく大事で素晴らしくて、人生で一番大切な時間だったのだと、実感として感じることができるでしょうか。思考できることが人間の中での一番の豊かさの証明であります。分からんことをなんとかして分かるようにしたいものです。


大学へは、よく行くようになった。本を読みに、話をしに、考えに。
ぼくはとてもそそっかしいから、焦らずゆっくり勉強したい。

既存文献の既存って、きそん、って読むんだね。ずっと、きぞん、って読んでた。恥ずかしい。


もうちょっと何か書きたい。





at 03:04, ぐっちー, -

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あさ

自分の住んでいるところ、住んでいたところについて、自覚的になろうとしている。環境の人格や品格形成に寄与する影響というのは、自分が考えている以上に大きいと思う。

私にはどうしても中心市街地の再生の問題や、自分と基本的にかかわりのないまちなみの再生、といった問題に関心が湧かないし、積極的に考えることができない。私情をはさむことがあまりよろしくない学問の世界にあって、つまらんことであるが、町の中で営まれた活動や生み出された思い出が、今の自分の人生に深く関わってくるもの、と考えたときに町の相貌は大切な人と似てくる。そうするとこいつはこうだ、と直感的な理解ができる。絶対的に他者が分からないという問題を軽く追い抜くように、君はそういうやつなのだ、それでいい、と思う。こんな一見あきらめに近いような、それでもこれは愛情なのかもしれぬ。高々10数年しか住んでおらず、その全体性なんて得体のしれないものは絶対に掴めないとわかっていても、わかってしまう不思議さが町にはある。思い出は今を照射するというが、思い出自体、線的になんて絶対に配置されず、図式は上書きされず常にその認識的な布置のバランスを変えながら残ってゆく。また、ある日ふっと思い出した小さいころの思い出が、生涯消えずに残ることもあるだろう。記憶は捨てられない。無意識が捨てない。常に蓄えられて、決して変わらぬ憧憬を描いている。勉強のモチベーションとは何かと考えたとき、最後に突き当たるのは物事に対する個人的興味であって、偶然の連続によるこれまでの思い出の古層である。残念ながらそれしかない。

at 09:18, ぐっちー, -

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雑感

ブックオフをぶらぶらしていたら、105円コーナーで岩波文庫の『武士道』が目に入った。昨年くらいに持てはやされていて、あんまり読む気がしなかったので読んでなかったのだが、森博嗣の新刊『ヴォイド・シェイパ』のエピグラフがこれだったな、たまにはメインストリームをば、という軽い気持ちでレジに持って行った。読んで驚いた。これは人生の諸であった。ふむふむー。あんまり語るもんでもないので、そっと心のどこかに置いておきましょう。最近の教養書(?)流行りは『論語』かしらねえ


自己を貶め一瞬にして超越的自己になりきることによって自分への批判を回避する、という器用な方策を何の苦も辱めもなく用いる人が多い気がする、と、授業のTAをしていて感じた。若者の感じとはこれか、という。かつて恥ずかしいこと、がたくさんあったはずだが、今は、昔の恥ずかしいこと、を軽くいなしている。先生の意見に対し、私は好きではないから、趣味に合わないから、という一言で距離を取り議論への道を断つ。自分の感性に対して、反省的意識があまりないのだろうか。自分も現代を生きる無気力な若者として、この感想を心に留めつつ毎日を真剣にですね…

アップルトンの『風景の経験』の完全翻訳版が出ていた。ちゃんと読まねばならん。5000円ねぇ。大学院生ならば、専門書だけは好きに買えるように、資金を工面しないと。図書館ではない。

阿佐ヶ谷に新しい古書店ができたらしい。音羽館で働いてらした方が開いたお店で、「古書コンコ堂」といいます。今月中にいけるかしら。

at 02:09, ぐっちー, -

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げんじょうじょう

研究室で誰が一番暇かと言えば、まぎれもなくこの私である。が、大学院なのになぜか授業がたくさんあり、とらねばならず、準備をせねばならず、あんまり興味がないことをたくさんやらねばならない今日この頃であります。大学院って自分の興味のあることに対して、自由に論文読んだり本読んだり議論する場所じゃなかったかしら。そもそも、私の研究室は、都市計画系研究室ではない。都市工学、なら少しわかる。都市何とか、という名称があまりに漠然としすぎてわかりにくいが、我々は、景観研究室であって、なんだか、都市に比べて、もっと漠然としていて、もう本当によくわからん。よくわからんなりに、風景や景観という、言葉の持っている意味や概念や構造や、今の現実へ適応できる風景把握モデルみたいなものを、頑張って考えようかしら、それと並行して、地域の認識を平面に落とす手法について、ちょっと考えようかしら、まあ絵図だよね、ハイパーテクストだよね、まずはハイパーテクストで表すことができる理由について考えようね、くらいに思っていて、思っているだけでよくすすんでない。あ、もうねなきゃ。

あとすこし
建築学科の院生がとる、都市計画の演習を取っているのだが、自分の前提知識のなさと、あちらの使う言葉があまりに曖昧で全然わからない。連携とか市民とか、合意形成とか、結局、どういうことなのか。本を読んで勉強ましょう、ということなのか。風景読解モデルについてなら話せるが、市民参加については話せない。全然違うからだ。それくらい事前に勉強しておこうね。。学部の時何をやっていたかというと、学者のエッセイや小難しい哲学的な言説に、はあはあしていました。ただ、それらは今でも大好き、もっと読もう、風景というのを、もう少し複雑な論理と言葉で語りたい。難しいことは、難しく語るほかないのです。それだけの頭があるのなら。難しく語れたさきに、みんなにわかるような、簡単な説明へとたどり着ける、はず。

あと、若いうちに、絶対に、自分の関わる景観、という学問の全体性について根を詰めて、具体的に考えておかねばならないと思う。じゃないと、どんどん細分化してしまう。

あとあと、工学部故にわき起こる感情としての、市民の人の幸せな生活を!、みたいな価値感情は絶対に挟まないようにしている。本当に分からないし、本当の意味で考えることができないから。でもまあ、素敵なまち、くらいは想像できるかな…くらいに思っているのです。あとは、東京はみんな繋がってなくてさみしい、だからつなげよ、みたいな話は、ちょっと受け付けられないのですです。

本当、人の感情には関わりたくないなあ。

at 03:15, ぐっちー, -

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